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FELLOW ORCHESTRA
フェローオーケストラ 第6回チャリティコンサート

[ 曲目解説 ]

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アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク(Antonín Leopold Dvořák、1841-1904)/​
交響曲第6番

最後の曲は、ドヴォルザークの交響曲のうち最初に出版された曲で、作曲家として成熟した姿を示した作品として知られています。故郷チェコへの想いを表現した作品をどうぞお楽しみください。

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ドヴォルザークってどんな人?

ドヴォルザークは、民謡や民族音楽といった国民的音楽をクラシック音楽に取り入れた国民楽派として有名な作曲家です。彼は屈指のメロディメーカーとしても知られ、交響曲第9番「新世界より」第2楽章は、小学校の下校時間に流れるほか、夕方に街全体で流れるメロディとして馴染みのある方も多いでしょう。

彼は37歳の時に、チェコやウクライナなどの民族舞曲のリズムを取り入れ創作した、「スラヴ舞曲集」の発表をきっかけに世に知られるようになり、次第に海外でも評価を得ていきます。そして、51歳の時、院長としてニューヨーク・ナショナル音楽院に招かれ、海を渡ります。その間、アフリカ系アメリカ音楽に刺激を受け、「新世界より」や弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」などを作曲し、人気を博しました。音楽を通して、祖国チェコの美しさや歴史を世界に広めた功績は高く評価されています。

お肉屋さんの店主になっていたかも!?

ドヴォルザークは1841年、チェコの田舎で肉屋兼宿屋の長男として生まれました。ツィター弾きだった父の影響で、6歳からヴァイオリンを習いはじめます。指導したシュピッツ先生は、彼の才能を見抜き、音楽家になることを期待しました。しかし、ドヴォルザークの父は不安定な音楽家ではなく、「肉屋を継いでもらいたい」と願っていました。そのため、ドヴォルザークは13歳の時、肉屋の修業とその資格を得るのに必要だったドイツ語を勉強するため、一人村を離れます。

楽しかった音楽の時間がなくなり、友人とも離れ離れとなるため、気乗りしないまま肉屋の修業に向かったドヴォルザークでしたが、ドイツ語教師のリーマン先生との出会いが、彼の人生に大きな影響を与えます。先生は音楽家でもあり、彼の才能を認めると、ヴィオラやオルガン演奏、音楽理論も教え、彼の音楽はますます豊かなものとなっていきました。

 肉屋の修業を終えた頃、両親の店は厳しい経営状態に陥っていました。そのため、ドヴォルザークが音楽の道を諦めて、店を手伝うという話が持ちあがりましたが、彼の才能を惜しんだリーマン先生とドヴォルザークの伯父が大反対! 両親を説得し、ついには、伯父がオルガン学校の学費を出すこととなり、音楽家の道を歩みはじめたのでした。

ブラームスに認められ一躍有名に!

オルガン学校を卒業後、オーケストラでヴィオラ奏者をしていたドヴォルザークですが作曲に専念したい気持ちが強くなり、オーケストラを退団します。その後、作曲活動をしながら、音楽の家庭教師として生活していましたが、なかなか食べていける状況ではありませんでした。

そんな生活を心配した友人の勧めで、国の奨学金に申し込みます。ドヴォルザークはまったく期待していませんでしたが、彼の豊かな才能が認められ、奨学金をもらえることに!

その後、奨学金の審査を毎年受けることになりますが、ある年、審査員を務めていたブラームスが、彼の才能に目をとめます。ブラームスは、奨学金の後押しにとどまらず、親しい出版社に彼の作品を紹介します。ブラームスの一声もあり、彼の作品は出版され、のちに彼の名をヨーロッパ中で有名にした「スラヴ舞曲集」を発表するなど、人気作曲家へと押し上げるきっかけとなりました。

これを機にブラームスとは、互いの家を行き来し、共に並んでピアノを弾き、食事をするほど仲を深めたのでした。

ドヴォルザークの意外な一面

彼は幼い頃から汽車が好きで、機関車の型や時刻表をよく知る「鉄道オタク」でした。朝の散歩や作曲の息抜きで、駅まで汽車を見にいっていたといいます。彼が、音の異変で汽車の不具合に気づき、事故を防いだというような逸話もあります。

また、彼は家族や友人、お世話になった人によく手紙を書いており、発見されているだけでも1,200通以上ある筆まめな人でした。日々の興奮や感動、心配ごとを書きつづっており、今では彼の人柄を知る貴重な資料となっています。

交響曲第6番ってどんな曲?

この曲は、1880年にハンガリーの指揮者ハンス・リヒターから依頼を受けて作曲されました。1882年にロンドンで彼がこの曲を指揮し大成功を収めたことで、ドヴォルザークの交響曲の中で最初に国際的な注目を集めた作品の一つとなります。また、この曲は最初に出版された交響曲であったため、長い間「第1番」として扱われていました。

ドヴォルザークの交響曲で有名な第7、8、9番と比べると、この曲にマイナーな印象を持つ方もいるかもしれません。しかしながら、この時期の彼の作曲技術や独自性が存分に発揮された曲であり、情感や熱気も持ちあわせた作品です。特に第3楽章のフリアントは、チェコの民族舞曲のスタイルを交響曲に取り入れたドヴォルザークの個性あふれる音楽といえます。

交響曲とは、オーケストラのための大(だい)規模な楽曲のことで、この曲は4つの楽章で構成されています。

第1楽章 Allegro non tanto(あまり速すぎずに)

 チェコの広大な牧草地や遠くの山並みをイメージさせ、春を迎えた人々の幸福感を描いたような楽章です。

第2楽章 Adagio(ゆるやかに)

 静けさの中に詩的な魅力があふれ、感情豊かに表現した美しい楽章です。

第3楽章 Scherzo(Furiant):presto(スケルツォ(フリアント):速く)

 チェコのダンスの独特なリズムとアクセントではじまる冒頭が印象的です。

第4楽章 Finale: Allegro con spirito(いきいきと速く)

 ブラームスやベートーヴェンを影響がみられる、幸福感を歌い上げたような楽章です。

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